月真院について– History –

鷲峰山高台寺の塔頭月真院は、久林玄昌が亀井豊前守の外護により、三江紹益を開祖として、元和二年(1616)に建立されました。
叢林山(そうりんざん)と号し、臨済禅宗建仁寺派に属します。

本尊は千躰地蔵菩薩です。

縁起Auspicious

往古は、萩と椿の名所として著名であり、江戸後期の歌人小沢芦庵等幾多の文人墨客の常席であった。
かくして、元治元年十一月、新撰組の隊士募集に応じた伊東甲子太郎、同実弟鈴木三樹三郎等は尊攘派であり、公武合体派の近藤勇、土方歳三との思想上の対立は次第に激化し、遂に慶応三年九月、新撰組より脱退を決意する伊東等は近藤と対決し、慶応三年三月十日、泉涌寺塔頭戒光寺長老湛然の肝煎りにて考明天皇御陵衛士を拝命し、山陵奉行戸田大和守の配下に属する事になり、同士十数名も伊東に従い脱退。
同年六月八日に五条通りの善立寺からこの月真院に移り、禁裏御陵衛士屯所の標札を掲げたので、高台寺党とも呼ばれるに至った。

御陵衛士屯所跡Garrison

その後、伊東は倒幕と新撰組壊滅の準備を進め機会を狙っていたが、同年十一月十八日、首領の伊東甲子太郎が近藤の妾宅に招かれ、その帰途油小路木津屋橋上で新撰組の閥討に遭い、本光寺門前の石塔にて最期を遂げ、遺体引取りに駆けつけた実弟鈴木三樹三郎等七名も張込みの新撰組に取り囲まれ、乱闘の末、三名は現地に死し、のがれし四名は薩摩藩に庇護されたが、この日をもって御陵衛士屯所は崩壊したのである。
現在、門前に駒札と「御陵衛士屯所跡」の石碑が建っているが、遺物等は残っていない。